人としてのモラルよりルールを重んじようとする空気のひろがり、強まりの中で、私は言葉が人のからだからも思いからも暮らしからも離れていっているのではないか、そんな気がしてなりません。だから、「感動的なお話」だって、行ってみればあくまでただの「お話」。自分とは関係ないものとして、なんの苦もなく二重思考ができるのかもしれません。いえ、少しでも苦をよびさましそうなものは、一切自分の中に持ち込まない。…(中略)…そうすれば、悩むこともなくなって、ああ、らくちん、らくちんといくわけだし……。モラルよりルールを重んじる空気が強くなりつつあるということは、もしかしたら平和より平穏を強く求め始めているということではないか。(pp.103-4)
表現しないか、したくてもできないでいる子どもたちは、いえ大人も、下手をすると、無能扱いされてしまいます。…(中断)…黙っているからといって、考えたり、感じたりしていないわけではない。場合によっては--いえ、かなりの頻度で--外目には、活発に表現活動をしていると見える人よりはるかにいきいきと内面は活動しているのに。(p.126)
でも、私はやっぱり違和感は大事にしたい。違和感を放棄してしまったら、私は考えることをやめ、考えることをやめたら、私は私でいることができなくなりますもの。(p.130)
退屈を知る人間でありたい、と私は心から願ってきました。退屈こそ精神の自立になくてはならないものと思うからです。さらに、自らの精神の自立なくして、他者と本当の意味でつながることはできないし、他者の内面を侵さずにいることもできないと考えるからです。それにしても今や退屈を埋めるもの、退屈を奪うものは巷に溢れています。幼い子供におもちゃを与えすぎると想像性が育たなくなるとよく言われますが、大人たちもまた次々と生産される“おもちゃ”の洪水の中で、自ら考えることを放棄し始めているようにも見受けられます。(p.188)